お母さんが死後の世界で
やすらかに暮らし
おいしいものを
たくさん食べていますように
お願いします。
大阪市住吉区 井上珠美
[大阪市 圓珠庵 鎌八幡神社]
前講と同じく、縁切りで多数の祈願者を集める鎌八幡神社に奉納されていた小絵馬である。
それにしては、縁切り祈願らしくない、と読んではいけない。
これは、飢えとか飢餓とかといったものとの縁切りを願っていると解釈すべきなのだ。
しかも、自分自身のことではなく(解釈によってはそうかも知れない)、亡くなった母親のことである。
「やすらかに暮らし」というのだから、殺伐たる貧乏暮らしとの縁切り願いとも読めなくはないが、「おいしいものをたくさん」という「食」へのこだわりを見れば、やはり飢餓との縁切り願いと読むべきだろう。
死んじゃったのだから、空腹も何も関係ないだろう、などと言ってはいけない。
仏教のほうには、「餓鬼道に落ちる」などという思想もあるくらいなのだから。多少、我田引水の匂いもするが。
そこまで考えなくても、この珠美さんと、その母親とは、少なくとも母親の生前、「おいしいものをたくさん」食べられるような境遇ではなかったのだ。
いつもひもじい思いをしていたとまでは行かなくても、ひもじい思いをすることも時々あった、と解釈するのが妥当である。
だからこそ、母親の死後までも珠美さんは、「おいしいものをたくさん」食べさせてあげたいと願う訳である。
しかし、そうなると願主である珠美さんの今現在はどうなのであろう?
母親の生前、「おいしいものをたくさん」食べられなかったのは母親だけで、珠美さんは「おいしいものをたくさん」(くどい)食べていた、ということは考えにくい。
そうなると、珠美さんは今も飢えとは縁が切れていない、少なくとも「おいしいものをたくさん」食べられる生活ではない、ということになる。
それが飢餓とか飢えとかいったレベルのものだと、非常に困った事態である。
実際、都会のど真ん中のアパートなどで飢え死にしている人が発見されるような世の中なのだから。
もちろん、珠美さんの母親が生前はおいしいものの食べ歩きなどを楽しむグルメだったと考えれば、そういう重い解釈は要らないのだ。
珠美さんが、そういう重い解釈をせざるを得ないような状況に置かれているなら、願かけなどしている余裕はなかろうとも思える。
どう解釈すればよいのか、おおいに悩むところである。