[ねがい]
人魚になりたいです。
久留米市○○町×××
立花 凛子
[久留米市 水天宮]
いかにもタドタドしい、稚拙な文字で書いてあれば、まあ、そう悩むことはないのである。
幼稚園に通うくらいの小さな女の子が、人魚姫の話にうっとりしただけと解釈すれば済むのだ。
しかし、この願主の願文も住所、氏名もかなりきちんとした筆跡であるし、「ねがい」という平仮名書きは、もともとこの神社の小絵馬に印刷されていたものだ。
水天宮という水に縁の深い神様に的確にお願いしているところなども、周到である。
つまり、幼稚園とか小学校低学年の女の子が奉納した小絵馬だとは、どうも思えない訳である。
水泳に取り組む女の子が、人魚のようにスイスイ泳げるようになりたいという願いでもなかろう。
で、この願主がたとえば思春期の中学生から高校生くらいの娘さんであったとしよう。
もちろん、ここで人魚というのは、単に下半身が魚になっている半人半魚の存在のことではなかろう。
あのアンデルセン童話の『人魚姫』の主人公のことだと解釈せざるを得ない。
人魚姫とは、どういう存在であったのか。
知らない読者のために解説しようと思うが、実は筆者とて、そんなことには詳しくない。
調べてみたところを極めて簡略に述べれば、海の底に暮らす人魚の身でありながら、美男子の人間の王子様に恋してしまった人魚姫の話である。
融通が利きそうに見えて実は無理難題を強いる魔女や、恋敵の、しかもラッキーな人間の娘、さらに優しい人魚の姉たちとの紆余曲折を経て、人魚姫は、究極の二者択一を迫られるのだ。
魔女からもらったナイフで王子様の心臓を刺して殺し、その血を自分の脚(魔女の助けで、すでに魚の下半身が人間の脚になっている)に塗れば人魚に戻って命は助かるが、そうしなければ「泡」になって死んでしまうという局面に立たされるのである。
そして、人魚姫は愛する王子様を殺すことなどできないと死を選び、泡になって天へ上って行くという、まあ一種の悲恋、純愛物語である。
してみると、この願主が「人魚(姫)になりたい」と願うのは、どうも実際にはそうなりそうもない状況にあるということか。
何かやむを得ない事情で、恋人の男に、かなりひどい仕打ちをせざるを得ない状況に置かれている、ということであろうか?
どうも今回の考察は、無益な一人相撲の感が強い。
いや、他の回の講義がそうでなかったとは言わないが、今回はとくにその傾向が顕著である。