▼志望校が合格できますように。
郁夫
[塩竈市 塩竃神社]
「志望校が合格」って、その程度の国語の力では、合格への道のりはかなり険しいのでは?
などと言って、小馬鹿にするのは簡単である。
だが、その読み方はあまりに浅過ぎる、思慮に欠けると言わざるを得ない。
熟慮もなく、そう読んでしまった読者は、自ら深く反省しなければならない。
ま、実は筆者も、最初そう読んでいたのであるが…。
おそらくコレしかない、という正しい解釈はこうだ。
郁夫クンは、多くの受験生と同じく、本命の他にも何校かを受験するのである。
で、予備校の講師だか学校の進路指導の先生だかによって、郁夫クンの実力からすれば、その多くは合格可能性A判定という判断がすでに下されているのだ。
ただ、本命の志望校だけは、どうにも予断を許さない状況にある。
郁夫クンにすれば、問題なのはその本命であって、他のところなどいくら受かっても無意味、どうでもいいのである。
そこで、思い余った彼は、頼りになるかならないか、この際だからと神頼みさえしてみる気になったわけだ。
しかし、元来、独立自尊の気風が旺盛なだけに、郁夫クンは神様に対しても懐疑的で、こう考えるのである。
――神様のヤツ、ひょっとして間違ったりしないだろうな。
いくつか受ける学校のうち、まあ2、3校合格させてやればいいだろうと適当にやられて、本命志望校を外されてはかなわない。
本命の志望校こそが、お前(何と神様のことである)に頼みたい本題であって、他はどうでもいいのだ。
そう念ずるあまり、彼は限定の意味を持つ格助詞「が」を選んでしまったのである。
もちろん、彼がそういう文法的なことまで意識していたかどうかは定かではないが、ともかく、この郁夫クンのような語法を取る願文は非常に多いのだ。
反対に、次のような願文も少なくない。
受験する
学校に
全部
合格
しますように。
堺市
桑野美緒
[防府市 防府天満宮]
「日本最初の天神様」を標榜する防府天満宮であるが、わざわざ大阪の堺市から山口県まで、受験校全制覇を願かけしに来る人もいるのである。
全部受かったところで入学できるのは一校だけ、この美緒ちゃんのような欲張りなことは言わない、本命校だけでいいのだという郁夫派の人達の気持ちも、よく理解できようと言うものである。