[願いごと]
しにませんように。
コンクールで
きんしょうが
とれますように。
吉田龍雄
はしもとはるな
[日向市 大御神社]
吉田龍雄クンと、はしもとはるなさんの連名である。
省略したが、龍雄クンの名前は絵馬の「住所」欄に、はるなさんの名前が「氏名」欄に書いてあるのだが、それはご愛嬌だ。
おそらく願いの前者が龍雄クン、後者がはるなさんであろう。
はるなさんのほうは、ピアノか絵でも習っているのだろうか。
ふたりがどういう間柄なのか知らないが、まことに微笑ましいのである。
龍雄クンのほうは氏名こそ立派に、難しい漢字で書かれているが、筆跡はまことにたどたどしい。はるなさんも似たりよったりである。
おそらく、ふたりとも文字を覚えて間もない年頃なのであろう。
注目したいのは、龍雄クンの願文である。
こうして各地の奉納絵馬を訪ね歩いていると、ふとデジャビュ(既視錯覚)にとらわれているような、ほんとうによく似た願い事に出くわすことがある。
単に願いの内容が似ているだけでなく、願主の素性や思考形態、状況が似ているのである。
この龍雄クンの願文もそのひとつだ。
龍雄クンは死にたくないと言っている。
初めて死というものを意識し始めて、漠然とそれへの恐れを語っているのであろう。
小学校低学年くらいまでの子が奉納した絵馬には、そういう願文が少なくないのだ。
たとえば、
かぞくがみんな
しなずにげんきに
くらせますよおに。
おいしゃさんに
なれますように。
おおはたともか
[松山市 伊佐爾波神社]
というのがあった。
ともか、という名前からはこの子が男の子なのか女の子なのか不明であるが、それはまあ、関係ない。
皆が死なずに元気にという願いが、お医者さんにという願いにつながったのか、あるいはともかさんのお父さんがお医者さんだから、ともかさんもそう思うようになったのか、それもあまり関係ない。
ともかく、「~よおに。」などと書く子が、おそらく自分も含めた家族の死を回避したいと願っているのである。
こんなのもあった。
人をころす人が
いなくなりますように。
黒川玲奈(8さい)小二 あいちけん
[和歌山市 紀州東照宮]
これもやっぱり、人の死や命というものを意識し始めた結果の願いだろう。
筆者のようなボケた大人の感覚では、人が死を意識し始めるのは老境に達してから、それに近くなってから、あるいは身近な人の死を体験してからだと思っていたが、どうもそうではないらしい。
子供たちは、筆者などが思っているより、もっと早く社会的に目覚めているのだ。
そして、こういう文字を覚え始める年頃というのが、人が人の生き死にを意識し始める年頃のようである。
とても真面目な考察になってしまった。いや、いつも真面目にやっているつもりだが。
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